ウエブ架線

織田レモソが書いたweb小説おきばです

サクラフェイカー / 09

折返し。

 

9:現実逃避主義

 

 情報処理の講義をサボったのは良くないことだと、自分でも重々承知だった。プログラミングにあまり教養がない俺にとって、ポインタは番地であるというその一言でその概念を理解できるわけがなかった。一応聞いておきたかったなあと、味のなくなったガムを噛むような思いをして彼女を見た。彼女は相変わらず世界を楽しんでいた。

「朝倉さん、今日はいい天気ですね」
「そうですね。絶好のサボり日和です」

 俺は本心じゃないことを言った。

「本当、罪な男ですね」

 彼女は丸っこい拳を口元にあてて無邪気に笑った。どういう意味なのか訊こうかと思ったが、やめておいた。もうサボってしまったことなど別にかまわない気がしてきた。

「これからどこに行くんですか。颯爽と講義をサボタージュしたわけですけど」
「どうしましょうかね」

 ふらふらと市街地を彷徨うのもアリかなと思ってみた。無気力に店を見て回り、不味いグリーンピースカレーを食べ、大学の図書館で課題をこなし、疲れた目で夕陽を見上げる。そうしたらなんだか村上春樹の主人公みたいになれるんじゃないかと思った。しかしつけあがった考えだと別の自分に言われ、目を覚ました。

「朝倉さん、提案があります」
「なんでしょう」
「家に帰りたいです」

 だったら最初から大学まで冷やかしに来ることないじゃないかと、うっかり叫びそうになった。通りすがりの野良犬に、まあ落ち着けよと言われた気がした。

「じゃあ帰りましょうか」
「はい、そうしましょう」
「ではまた、桜庭さん」

 俺は踵を返して3番のバス停の方に歩き出した。彼女も後からついてきて同じバス停でバスを待った。おかしいな。彼女なら普通、5番のバス停であるはずだ。どこに行こうと彼女の勝手だが、気になったので俺は訊ねてみた。

「あの、乗り場こっちじゃないですよね」
「そうですね」

 それだけの反応だった。

 やがてバスが来て、俺と彼女はバスに乗った。後部座席が空いていたので座ると、彼女は親のあとについてくるカルガモのような当たり前さで俺の隣に腰掛けた。彼女はいっこうに帰る様子を見せなかった。

 俺と同じバス停で降り、同じ駅まで地下鉄に乗り、同じ角を曲がって、同じコンビニで昼飯まで買っていた。同じアパートに到着したところで、俺は彼女に声をかけた。

「あの……帰るんじゃなかったんですか?」
「はい、帰りますよ」
「でも、言ってることとやってることが違ってますよ」
「何を言ってるんですか朝倉さん。ここが私の帰る家です」

 指差すその先には、俺の家の扉があった。

 三階の錆び付いたドアを乾いた音と共に開いた。靴を脱いで部屋のカーテンをあけた。彼女はいそいそとブーツを脱いで、備え付けの小さい台所やカゴいっぱいに溢れた洗濯物をまじまじと見つめながら部屋に入ってきた。すうっと彼女は息を吸い込むと、ふああっと声を漏らして息を吐いた。今さらになって消臭しておけばよかったと後悔した。

「ここが朝倉さんの部屋なんですね」
「はい。すみません散らかってて。あ、窓開けますね」
「お構いなく。むしろ、生活臭がしてとても嗅ぎがいがあります」
「そう、ですか」

 嗅ぎがいがあるってどういう意味なんだろうと思いつつ、俺はとりあえずベッドに腰を落ち着けそのまま体を横たえた。たくさんの空気抵抗を感じながら羽毛ぶとんに包まれる。彼女も真似をして同じように寝そべった。そして一時の間のあと、彼女はぬいぐるみのようにぴたっと俺にしがみついてきた。

「なんですかいきなり」
「抱き枕」

 身動きが出来ない嬉しさに、俺はぐっときた。これだ。こんなシチュエーションを、俺は望んでいたのだ。大学に入学して一年弱。とうとう俺にもサクラ咲く春の季節が到来したようだ。

 だが、俺の右腕に突如血流が止まりそうな勢いのしめつけを感じた。夢から覚めたような目で俺は彼女を見た。彼女は幸せそうに俺の右腕を頬ずりしていた。何故だろう、彼女から見えない手綱が見えたような気がした。それは弧を描くようにたるんで俺の首に巻きついている。犬になった気分だ。さっき落ち着けと言われた(気がした)野良犬が脳裏に浮かんだ。師匠、俺は幸せを履き違えているのでしょうか。

「あっさくらさん」
「なっんですか」
「実は私、女の子なんです」
「知ってます」
「でも女じゃないんです」
「へえ」
「そこで提案なんですけど、朝倉さん、私を女にしませんか?」

 銃弾のように直球なお誘いだった。俺は黙った。俺は迷った。こんなふうにして俺は女の子を女にするのかなと思った。ふと俺の中で、狼が唸りをあげ始めると共に、それに怖気付いて逃げ出す雑巾のような犬を見た。小さくて情けない負け犬の遠吠えを聞いた。

「それは……どうでしょうね」
「今なら一万円キャッシュバックですよ」
「お金の問題じゃないです」

 俺はゆっくりと彼女を振りほどいて起き上がった。臆病風に吹かれて、前髪が揺れた。

「…………」

 この時俺は、もう殴り殺されてもいいくらいに納得した。俺に彼女ができるはずなどなかった。彼女はその後何も言わなくなった。

 ぼうっとスマートフォンをいじくっていると、無反応だった彼女の空気が変わっているのに気がついた。つぶらな瞳に瞼をおおって、赤ちゃんのようにすうすう眠っていた。眉毛が八の字になっていて少し笑ってしまった。ところどころ垣間見える彼女の肉体に本能が蠢くのを感じつつ、俺は人間らしく、コンビニの弁当を食べることにした。

 うまく表現できないけれど、性欲のセールスマンから隠れるように、食欲の個室に逃げ込んだ感覚だった。

 レンジで温めたあと、ラッピングをはずし割り箸を割った。
「いただきます」

 鶏の唐揚げをひょいと口に入れてご飯を食べた。濃いめの味が白飯にとてもマッチしていた。俺は漬物、卵、きんぴらごぼう、次々とおかずを口に放りこんでいった。もぐもぐ口を動かす。そして十分も経たないうちに弁当を完食。ペットボトルのお茶で口を整えた。

 何もすることがなかった。俺は大学に行っている妄想をしてみた。今日は一限目の情報処理と、三限目の教育学Bだけだ。今は昼過ぎだから昼飯を生協で買って食べているころだろう。波多目あたりとラウンジかどこかで一緒に食って、次の講義の席でも取っておくはずだ。今日の日替わりメニューは何だったのだろうか。チキン南蛮セットだったら、サボったことを全力で後悔するなあと思いつつ、それにつけても暇だった。

 爪を何気なく見て切らなくちゃいけないなと思い、でも億劫だったのでパソコンを起動してネットサーフィンをしようとマウスに手を添えたその時。

「んー……」

 彼女は枝毛を生やして半開きの目を俺に向けた。

「私……寝てた、んですか?」
「はい。ぐっすり」
「そうですか……」

 あくびをして口をもごもごし、彼女は女の子座りで髪を溶かした。鼻をすすったあと、ゆっくりと瞳を閉じた。

「また寝るんですか?」

 彼女は首をふるふると横に振った。それでも眠いようだ。

 ここでふと魔が差した。次の瞬間、俺は彼女にキスしていた。さっきまでのヘタレ気質はどこへいったのか。でも実はヘタレは逃げも隠れもしていない。自ずと今がその時だと思ったのだ。勇気とかそんなものじゃなくて、単純な思いつきだった。彼女は目を覚ましたようで、今自分にされたことを思い出したのか、おもむろに近くにあった毛布を抱きしめた。

「朝倉さん……」

 彼女はため息のような優しいささやきで俺の名前を呼んだ。

「なんですか」
「いきなりこんなことするなんて、聞いてないです……」
「怒りましたか?」
「いいえ。正直、何が起こったのか、自分でもよくわかってません……」
「実は何も起きてないですよ」
「嘘です」
「嫌でしたか?」

 彼女は首をふるふると横に振った。俺はその反応を見て安心した。

「朝倉さん、さっきは全然私に興味示してくれなかったのに」
「寝顔にキュンときたんで、うっかり」
「…………」

 彼女は毛布をさらに抱きしめた。

「完全にやられました」
「ごちそうさまでした」

 俺は弁当のゴミを全てゴミ箱に突っ込んで、ペットボトルを洗濯機の横に並べた。あと一本並べることがあったら、ゴミ袋を出そう。外はもう西日が差していているようで、玄関の除き穴から漏れた光が七色の輪を作り、俺の胸に映っていた。

 

つづく